ー唄を歌うー【贈る言葉/望月敬明先生の巻17】

唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は、後の山に棄てましょうか、いえ、いえ、それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は、背戸の小藪に埋(い)けましょか、いえ、いえ、それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましょか、いえ、いえ、それはかわいそう
唄を忘れた金糸雀は、象牙の船に、銀の櫂(かい)、月夜の海に浮かべれば、忘れた唄をおもいだす
      〜〜かなりや、西条八十、赤い鳥〜〜

 唄を忘れた、とは、よくもいったものだなと思う。忘れたのです、唄がなかったのではないのです。もともと、もっていたものを「忘れた」のです。
 
(何故忘れたかとはいっていませんが)では、その唄を忘れた金糸雀をどうしようというのでしょう。棄ててはいけません、埋(い)けてはいけません、ぶつなんてとんでもない、じゃあどうしよう。そっと象牙の船にのせ、銀の櫂(かい)を添え、月夜の海に浮かべましょう。そしたら金糸雀はひとりでに忘れた唄を思い出す。唄の歌える本然の金糸雀を取り戻すというのです。
 
ところで、人が唄を歌うという時、忘れた唄を思い出すとは、勿論単なる記憶の想起ではなく、より深く本質そのものへの内省、そして迫進、をさすものと思います。そこにはじめて歌が生れ、よりよい唄を歌うことが出来るのだと思います。
 
そんな「唄を歌う」という本質を考え乍ら、十年もおつき合いしている皆さんの唄に、今日はきく立場から参加させてもらいたいと思います。是非是非、よりよい「唄」でありますようにと祈っています。

1968 福井放送合唱団 定期演奏会にて
常任指揮者 望月敬明

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